透明人間の逆。

強いていえば、着色人間というところか。


授業研究やちゃんとした授業の実施は、言うなれば透明人間なのだ。

いかに時間を割こうが、いかに生徒といい授業を作り上げていようが、誰にもきちんと評価されない。


なぜなら、教室には基本的に教員ひとりだし、それが如実に数的に表されることは少ないからだ。

だから誰にも認められない、つまり透明人間。


一方、部活指導は言うなれば着色人間というべきだろう。


【◯◯競技、県大会、3位】

や、

【△△選手、全国大会出場】

なんて成績を残せば、見た目にもわかりやすいし、地域にも評判がいい。

まして、校長や教頭といった管理職も鼻高々である。


誰の目にも明らかで、わかりやすい。

言い換えれば、着色人間である。


目の前に部活をしたがる生徒はいるし、それを望む管理職や地域の姿が透けて見える。

しかも、分かりやすく評判を上げられる。

だから、土日を捨ててでも部活をしたがる教員がいるのではないか。

無論、単純に生徒の喜ぶ顔が見たいという教員もいるだろう。


増して、体育の専門家である保健体育の教員ならひとしおである。

体育の専門家として、ひとつの競技で成績を出すことには意味がある。

だから、特に文句も言わずに取り組むのではないか。

そして、それはひいては授業研究にもつながる。


私は考える。

誰にもきちんと評価されなくても、そこに生徒と学ぶ喜びがあれば、本来の本務でもあるし、授業研究にしっかりと取り組むべきなのだ。

部活はしてもいいが、希望者の教員のみが躍起になって取り組めばいいのだ。


私は透明人間でいいのだ。

透明人間であったとしても、一緒に授業を行う生徒は、私の存在に気付いてくれる。


そして、本務をなおざりにした着色人間は、その着色がすぐに剥がれ、空っぽの内面がさらされることになるだろう。


部活のみを頑張る着色人間しか見えない生徒がいることに、一抹の不安を覚える秋の夜でした。



※名誉のために言っておきますが、授業研究も部活も、どちらもきちんとされている先生もいらっしゃいます。ただし、部活を全員に強いるのは問題だと提起したいのです。



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